開き直りのすゝめ 〜パートナーと14点差ついた〜

こんにちは!昨年、台湾で行われたNEAOについて20期の嶋本さんに書いていただきました!今までにないほど大会について具体的に書いていただいてるので、乞うご期待!👇👇👇


初めての国際大会を終え3度目のブログを書いてから早いものでもう1年が経ち、東京の冬は雪こそ降らねど吹き荒ぶ寒風が冷たく肌を突き刺す。南シナ海の暖かな風に思いをいたしつつ、春遠からぬ街・東京でなんとなく憂鬱な気分を抱えながら、遅筆な私は二ヶ月越しの今日ようやく筆を取ることにした。

ところで、”大して結果を残していないのに何故かよくブログには登場するディベーターランキング”暫定一位を預かる私ではあるが、正直なところを申せば今回このブログを担当することに対して一抹の後ろめたさを覚えている事は申し上げておきたい。そして、それが昨年も同じ大会のブログを担当したことによる新進気鋭の後輩に機会を譲るべきではないかという思いからなのか、この大会で自分が結果に貢献していないと思ったからなのか、単に書くことが思い浮かばないからなのか、この寒さによる陰鬱さからなのか、あるいはまた他の理由があるのか、自分でもわからない。

結局は先代の広報殿の巧みな話術に乗せられて引き受けてしまったが、そうなると非常に悩ましいのは何を書くかということである。今回の優秀なるパートナーとの共闘は2年前に書いた。そして北東アジアの覇権を賭けた今大会の白書は既に昨年寄稿した。今年の私は一体何を書くべきなのか、何が残されているのか、何を求められているのか、頼まれた当初の私には一切思い浮かばなかった。そうした事をぼんやりと考えながらSNSを眺めていたある日-どうやらその日は1年生の学年大会があったようだが-その時我が煩雑なるTLに流れてくる数々の投稿を眺めているうちに1つの考えが浮かんだ。私は4月には4年生になる予定であり、おそらく大学にいる時間は残り1年である。これまで3年弱ほどこのサークルに居て、先輩に、同期に、そして後輩に、数え切れないほどの負けを頂戴してきた。それでも図々しく、しぶとく、雑草のようにここに居座り続けてきた私の目から見えた景色をここに書き残したとしたら、そこに何かしらの意味を見出してくれる人がきっといるのではないか、そうした考えが輪郭を持って浮かび上がってきたのである。

正直なところ、特に何かを得られるわけではなくただ長い自己満足の駄文が出来上がる予感しかしていないというのが実情だ。しかし、ここまで読んだ上でさらに続きを読んでやろうなどと思う酔狂な読者が居たとしたら、このまま読み進めていただければ筆者冥利に尽きるというものである。

なお、時は令和2年であり、Conservativeな層の多いこの国の中でも比較的LiberalなDebating communityではOpenかつInclusiveなParticipationを保つためのMovementが盛んに行われている。本稿でもそれを遵守し、Equity PolicyをViolateしないように3人称はGenderに関係なく「彼」に統一するものとする。

 

花粉の季節も終わる5月末、長い留学を終え帰国する。2年前共に門戸を叩いた同期の大半は姿を消し、代わりに見知らぬ1年生が居る。どういうわけか、このサークルは中学や高校で一騎当千の活躍をしてきた猛者たちが多く集まるらしく、そして彼らは当然のように大学1年で何となくディベートを始めてロクに練習もしてきていない3年生などは足元にも及ばぬほど精強であったりする。代謝が早く心地の良い新しい風が吹く組織は美しいものだなと余裕を持つような暇はなく、上手くやらねば一瞬で居場所がなくなる緊張感が漂う。同期の大半が姿を消した理由はこの辺りにあるのかもしれない、そのような事をぼんやりと考えながら帰国後のディベート生活が幕を開けた。”幕を開けた”とあたかも帰国後の私がこの競技に全力で打ち込んだかのような書き方をしてしまったが、これは正しくない。というのも、どうも令和の世の中は大学3年生という生き物に対して平穏で楽な人生を提供してはくれないようで、それまで人生の夏休みとも称される大学生活を謳歌してきた20歳そこらの若造は唐突に現実と向き合わされるからである。1年生の頃は適当に日吉練に行き英語の勉強をしつつ成績を確保しておけばよかったし、留学先で過ごした2年生の1年間は自分が学びたいものだけ学んでいればよかった。将来,収入,人生設計などといった言葉から意図的でこそなくとも結果的に逃げてきた私にとって、帰国後久しぶりに再会した元同期がすでに就職活動なるものを始めていた事は衝撃的であった。無論、私とてこの波から逃れられるわけではなく、業界理解やら自己分析やらをおろそかにしたままとりあえず聞いたことのある会社に応募する怠惰な就活生としてこれに身を任せた。ところがこの就職活動という場において、自分が今までただぼんやりとしがみついていた場所の有り難さを思い知らされることになる。書店やネットなどを見渡してみると、今の世には「論理的思考力」や「地頭」といった耳障りは良いもののそれ単体でどのようなものを示しているのかが極めて曖昧な言葉が蔓延しているように思える。正直それらについて何かを知っているわけではないが、これまで2年と少しほど優秀なディベーター達に叩きのめされ続けてきた私は、どうやら期せずしてそれらを他の就活生よりほんの少しだけ多く備えた人間になっていたようだった。ほとんど経験のないグループディスカッションやら面接やらジョブやらを無難にこなしつつ、9月末にはこの試練に1つの区切りをつけることができたのは、ひとえにこのディベート経験によるものであると思っており、ただ迷い込んで入っただけのサークルに対する感謝は言い表せぬ大きさになりつつあった。一方で、留学期間も含め享受できるだけの恩恵を享受してしまった結果、これ以上の実績に対する貪欲さは失われた。もう得るものは得たのだからこれ以上何を望むのかという「開き直り」がここに生まれた。

 

わざわざ公式のブログに書くなと言われそうな情けない話でしかないのであるが、悲しいことにこのサークルにおいて私には取り柄という取り柄がない。令和の世になっても残っている同期は3人いるが、私は彼らのことを心底尊敬している。ディベートの結果だけを見ても世界王者やABP日本人最高位であったり、また米最高峰の大学に正規留学して最難関企業から内定を勝ち取っていたりと、私のような凡人では張り合おうとすら思えないような逸材達と今の時間を共に過ごせていることは私の人生において大きな財産である。また同期だけでなく下の代も粒ぞろいで、何かに秀でている人や血の滲むような努力ができた人、先を見通せる視野を持つ人、そういった彼らを相手にして私が先輩として提供できる物はほとんど、いや何一つとしてなかった。そもそも学年が上という事はより優れているという事やより多くを知っているという事を意味するわけではなく、単に学年が上である以上でもそれ以下でもない。であるならば、私には彼らに対して先輩面をする権利も無ければ義務も無いのではないか。その「開き直り」は、私をある思い出から解き放ってくれた。

高校時代に小さな運動部の主将だった私にとって、先輩というのは元来嫌な役回りである。「ある程度まとまって練習をし、チームとして大会に参加する部活動である」という運動部の特性上、どうしても先輩の”威厳”や”リーダーシップ”というものが求められた。幸か不幸か、私の1つ上の代の先輩は一言で言えば偉大だった。彼は高校総体で準優勝するほどの実力と学年700人の中で上位10人に入るほどの学力を兼ね備えており、誰からも尊敬されていたし、もちろん私も誰よりも尊敬していた。しかしその存在は後を継がねばならぬ者にとってはあまりに重く、その重さは私を早期に引退に追い込み、そして大学入学と共に競技を辞める決断を強いるに足るものだった。そうした重圧が生んだ私の高圧的な態度のためか同期や後輩とも最終的にあまりうまく行かず、自分が組織を束ね人の上に立つリーダーになることができる器ではないことを確信したのもまた、この時であった。

そのような高校時代とは異なり、今の私は先輩を演じる必要がない。別にまとめる必要もなければそのために尊敬される必要もない。指導などで必要な先輩の役回りは、優秀な同期や先輩が既にやってくれている。昔のように関係を悪化させる危険をおかしてまで先輩ぶる必要がない事に気付けた私は、「良い人」になることができた。荒い言葉を使わず、上から物を語らず、物腰柔らかに接することで優しい上級生になれるというのはサークルと言えど敬語や上下関係を撤廃し切れない日本の文化によるものなのだろうか。この自分は大したことのないただの上級生なのだから”先輩”にならなくてもよいという「開き直り」が与えてくれた今私がいる環境というのはあまりに快適であり、前述したディベートやこの場所そのものへの感謝と相まって失いたくないという想いが日増しに強まっている。これが奏功したのか、先日元チーフさんに「誰からも嫌われない才能がありますよね」という言葉をいただいた。それが正しいとすれば、まだしばらくはここに居させてもらえそうで安堵している。

 

さすがにそろそろこの大会に関する話をしなければ読者に怒られると思うのでそうさせていただくが、当初私は一切出る気がなかった。去年の「EFL準決勝進出」という結果が私にとっては十分以上の物であったことや当時のパートナーはすでにジャッジとしての出場を決めていたことなど理由に困ることはないが、とにかく出ようという発想そのものがほぼ無かったと言っても良い。9月に成都で行われたADOにおいて相部屋で過ごさせていただいた2年生曰く「1年生が1組と2年生が2組ほど出場する」とのことだったが、その時点でもほうそうなのか頑張ってくれとしか思っておらず、自分もそこへ行く事になるとは微塵も想像していなかった。

ところがこの事情はその後急展開を迎える。その頃中台関係の悪化を受けて中国本土人の台湾への個人旅行が禁止されることとなったが、これは中国人ディベーターを台湾NEAOへ出場できなくさせ、その結果空いた枠の分だけ新たな参加者が募られるという事態へとつながった。その事を我々が聞いたのは夏休みも終わりに近付いた9月半ばに2年生3年生3年生という一見不思議な3人で楽しくカラオケで歌っていた時のことだが、そこで何故か突如空いた枠の存在に触発された世界チャンピオンの片割れによって台湾NEAOへ向かう4つ目のチームが結成されることとなった。「え、嶋本一緒に行かない?」という声とともに彼に私が選ばれた理由は、恐らく2年前に組んだことがあったこと、特に留学中を含むこの1年の間LINEなどで頻繁にやり取りをする仲だったこと、そして何より彼が出場を決めた時その場にいたことだろう。本音を申し上げると、今回私が持ち帰った戦果のうち80%前後はここでこの男とチームを結成したこと、そして何よりそこに至るまでに培ってきた彼との友情によるものだと思っている。大会が始まる前のこの時点で、私は2度目のNEAOに勝利していたと言っても過言ではない。

しかし思い返すと、出場とチーム結成の提案を即決で決めたわけではなかった。我々は確かに2年前も同じチームで大会には出場していて、その記憶が邪魔をしたからである。その時私はディベートのいろはも知らずブレイク経験もほぼなく、そして何よりBP noviceという大会が生んだ「先輩枠」として自分と組んでいるパートナーに対して尊敬だけでなく畏敬の念を抱いてしまっていた。そして彼もまた1年生で、学年大会に対しても半ば執拗に勝利を狙う執念があり、そのプライドと情熱は全てをもあまねく焼き尽くさんばかりであった。こうして出来上がったチームは同期同士としては重苦しく、そして先輩後輩としては冷たい物となり、それらはこの競技の負の面を余すことなく表していた。練習のたびにすれ違い続けた我々は確かにGFにこそ行ったものの、その後の会話は減り、そのまま冷え込み続けていくかに思われた。しかし人間関係というのは不思議なもので、至るところで友情や恋を残酷にも切り裂くこの「距離」というものがむしろ仲を取り持ってくれることがあるようだ。私が留学先のディベート部で抱えた悩みなどを相談し、あるいは彼の相談に乗ったりしているうちに、いつの間にか深く根を張っていたはずの氷は溶け、帰国する頃には練習とは一切関係なく遊びに行く仲になっていた。そんな折に、突然かけられた「え、嶋本一緒に行かない?」という言葉に、私は大いに悩んだ。たしかに現在は非常に関係が良いが、チーム結成と大会参戦はこれを壊し得るのではないか、そうした予感が脳裏をよぎった私は即答することができなかった。しかし同時に、その言葉の声色は2年前にトライアウトで先輩指名権を得た私が彼を選んだときの「ああお前か、俺は出る以上勝ちたいんだからわかってるよな」という言葉とは大きく異なり、暖かみのあるものであった。そしてこの暖かみが、最後に私の背中を押したのである。

 

チームというのは綿密な計画とともに組まれる場合と、勢いで結成される場合とがあるらしい。今回はまさに後者だと言って良い。ポジションこそ暗黙の了解で「1-4:私/2-3:パートナー」と決まっていたものの、作戦も目標も何も決まっていなかった。そもそもお互い特定の目標もなかったため、決めようがなかったのである。他インステの事情は存じ上げないが、少なくともこのKDSにおいて3年生というのは既に一線を引いた存在という側面が強まる時期になるのではないか、と勝手に思っている。これには前述した就職活動の存在や執行代を終えていることが理由としてあるだろうが、とにかく確かなことは我々が2人とも引退気分であり、何か大きな目標を定めてそれに向け全力で努力したわけではない、ということである。これは大会の2日前と1日後の飛行機を取り、その前後に優雅に観光を楽しんでいるという点からも見て取れそうである。大会前においても、練習と称して三田で集まった日にはケース面接の練習をしたり、あるいは並んでWEBテストを解いたりしていたため、きちんとしたディベートの練習は出題が予想される論題について各々が知っていることを共有した程度である。しかし、ここで「対等」に意見を出し合い、そして議論を交わしたことは、後のラウンドでのチームワークに大きく貢献してくれたと思っている。そのように過ごしているうちに11月下旬を迎え、「予選7ラウンドですり合わせていこう」という一見投げやりな方針のまま台湾へ渡る。安価ながら綺麗な宿で1泊しつつ台北を観光する、充実した三田祭期間の始まりであった。到着翌日には後輩らと合流し、彼らと共に好物の火鍋をつついたり、あるいは足つぼマッサージを受けに行ったりと、非常に楽しむことができた。ここまで読んでいただければわかる通りであるが、我々は清々しいほどに練習をしなかった。そして大会本番に対してもこれまでに積み重ねてきた努力の少なさ故か期待も少なく、そして緊張も少なかった。

余談だが、その夜に現在南京に留学している昨年の当該大会のパートナーと数カ月ぶりの再開を果たした。予定より2時間ほど遅れて姿を現した彼は中国語も、ディベートも、そして態度も一回りほど大きく成長しており、そんな彼に「おい嶋本と馬場久しぶりだな〜、元気か〜?」と声をかけられながら共に遅めの夕食をとるのは非常に楽しいものであった。

ラウンドの話をしようと思うと、まず浮かぶのは長かったことである。これは個人的な意見だが、一般的な強度の脳を持つディベーターが1日にストレスなくこなせるラウンド数は3つ程度なのではないだろうか。2日目にサイレントを含めて4ラウンドを行う今大会は、日頃ラウンドをこなしてきていない引退勢には過酷であり、おそらく現役バリバリであっても過酷だと思うが、とにかく我々に消耗を強いるものであった。

そのような長い7ラウンドではあったが、論題が面白みにあふれるものであったこと、そして我々がディベートとしてではなく趣味や授業も含め日常的に議論していた分野が多かったこと、何よりよほど日頃の行いが良かったのか全てのラウンドにおいて有利なサイドに居たことによって、各々のラウンドそのものによるストレスは微小であった。なお今大会ではチームコード制が採られていたが、我々のコードは以下の画像の様な顔であった。始まる前から負けが確定したような気がしてくるので頼むからそのような顔をしないでくれと切に願っていた。

本当はここからの下りは「パートナーががんばった!!!すごい!!!」で済ませようと思っていたが、悲しいことにKDSでこの大会のブログを書いているのは私1人である。最低限の内容は共有しておかねば大いに糾弾されますます肩身が狭くなる可能性があるため、ここは簡単に記しておかねばなるまい。

大会のたびにやっていることだが、Debate Breakingを使い必要ポイントを見る。見たところ13点あれば安全圏であるので、初日に3ラウンドで5〜6点、慣れてきた2日目に残りの7〜8点を取ってやればまあ良いだろうという認識を共有した。

R1、OGを引く。初っ端からなんともわかりづらい論題かつオープニングのしかもOGで、同じ大会で2年連続のOGスタートかとやや厭戦気分に陥る。幸い日頃の会話からパートナーとはこういった世代間闘争のネタにおいてかなり近い意見を共有しているため、プレパ自体は非常にやりやすかった。多くの国では年齢の高さは地位や発言力に直結し、若者の意見が封じ込められているため、こうした運動により始めて双方が意見を出せる様な社会へと調整される、といったような主張をまとめた我々は対岸のOOを封じ込めることには成功し、オープニングの戦いを制した。その後COの台湾人高校生がなかなかに強く1位を持っていかれたが、それでも2位とそう悪くないスタートではあった。数カ月ぶりのスピーチとなる私のパートナーはブランクを多少は感じさせたものの、それでもやはりチャンピオンの貫禄を見せており、この強く頼りになるパートナーがラウンドを支配するのを隣で見るというのが今大会の醍醐味の1つであった。ここで2点を獲得した。

R2COを引く。正直なところ我々は2人とも「いやぁそんなもん作れるんすかねぇ(困惑)」というのが本音であった。三田で履修しているEU経済の授業で調べた「ユーロがドイツに永遠の通貨安を与えイタリアに永遠の通貨高を押し付けている」といった話を一通り彼に渡しつつ、今度はクロージングに配置されていたためとりあえずラウンドの様子を見るという方針に落ち着いた。オープニングの戦いは、現状の3カ国間に存在する問題をこの連合構想が解決できるという筋書きを説明するOGと、それが現状の関係からして困難であることを立論と反論の両面から立てるOOとの争いになっていたように見えたが、我々はこの北東アジア連合なるものが少なくとも成立可能である状況でないとそもそもディベートが始まらない旨を投げ込んであげたことで綺麗に前を抜くことができた模様である。もちろんその一貫として我がパートナーは「中華様による一強他弱状態」が生み出される経済格差のメカニズムを綺麗に説明しきっており、自分が渡したアイデアが強者の手を介すことできっちり勝ちに貢献している様子を見ているのも非常に愉快なものであった。ここで3点を獲得したため計5点となった。1日目の目標は56点だったので良いペースである。

R3、OOを引く。逃亡犯条例が提出される1週間前に香港から帰ってきた身からするとなんとも色々と込み上げてくるものの多い論題である。さすがに私のほうが多くを知っていそうだと思ったため、プレパ開始と同時にそもそもの発端、デモ隊が守ろうとしているものと壊しているもの、警察による暴力の現状、留学生の数や現状など、様々な事柄を羅列し2人で整理した。OOという香港を見捨てて帰ることを正当化する立場であったが、一通り並べた事象の中で特に使えそうなのは警察がかなり早い段階で暴力的な解決手段を取ること、そして事故として処理される不審死が膨大な数に上っていること、最後に多くの国で北京寄りの報道がなされておりこの混乱の発端が何であったのかさえも理解していない他国人が大多数であることの3つであるという事でまとまった。念の為申し上げておくと、これらの事柄は私が個人的に現地の友人や各種メディアなどから日頃得ている情報に基づく極めて私的な見解である。何卒その点には留意しておいていただきたい。そうして部屋に入るとR1で1位をかっさらって行った高校生ペアと再び、そして今度は真正面で対峙していることに気付く。私は非常に温厚な人間であるため、先程の借りを返そうなどという感情は一切なく、あるいは先程は後ろから抜かれたため今回正面から叩き潰してやろうなどという感情も一切なく、ただ自分として満足の行くスピーチができれば良いなという一心であった。情報量の多いプレパを一通り終えた末の方針は、パートナーが出した自分の生存と安全を優先させる権利と私が出した帰国したほうがむしろ有益なことを成し遂げられるという可能性の2本立てということになっていた。これらをどう分担するかについてだが、後者に関しては日本で「ねえ香港って何が起こってるの?」という質問に膨大な回数回答してきている私のほうが描けそうだという判断の結果、LOのスピーチでは主にそちらに時間を割くこととした。日頃共に学び共に生活している仲間たちが自国の民主主義のために立ち上がっているというのに自分だけ帰るのか、信頼を失わないのか、といった私としては非常に「わかる」話をされ危うく共感しかけるが、自らの思想信条とは関係なく与えられた場所のために戦わなければならぬという非情さもまたこの競技の醍醐味である。

実利と権利の両対立軸を埋めた我々は無難に1位をいただき、ここまでの獲得点が8点となったことで、上位のラウンドに投げ込まれ続ける過酷な2日目が見えてきた。パートナーからそれを聞いた私は、恐怖に震えていた。

皆さんは音源をどの程度聞かれるだろうか。強いKDSの皆様は恐らく日常的に聞かれていると思うのだが、これを書いている私は最近はほとんど聞いていないというのが正直なところである。そんな怠惰な私でも、これまで1つだけ何度も何度も聞いてきたものがある。それはWUDCやEUDCではなく、ちょうど1年前の広州NEAOの決勝で自ら撮ったものであり、そしてそこには決して勝ってはいなかったのにも関わらずとにかく私を魅了して放さなかったチームがいた。

時は2019年、場所は台北NEAOのラウンド4。1年前には観客席から眺めていたそのチームを、今度は同じ部屋のクロージングから見つめているのはどうした因果だろうか。そして今回、私の横には世界チャンピオンがいる。それらの情報を上手く処理しきれていない私は、なんとも言い表し難い複雑な感情とともに人生初の国際大会トップラウンドへと向かった。

R4、CGを引く。プレパが始まり、論題を見る。”Completely straight”とはなんなのか、その疑問で脳内が?で埋まる。嫌な予感はしていたが、結局最後までここが肯定否定でこじれることとなったのは後の話である。さすがはトップラウンドで、オープニングは双方ともに我々が考えていた話などそれをあざ笑うかのように即座かつ綺麗に埋め切る。ところがそれを見ても一切動じる素振りを見せないのが我が優秀なパートナーの強さである。我々の前のOGが自陣の説明に欠いた点は無くとも対岸の話に乗れていない事を即座に見抜いた彼は、ひたすら斜め前のOOに乗った話で一点突破を目指した。このとき私は目眩がした。実は昨夜寝る前にぼんやりと話しながら共有していた事の中に「敢えて前のチームを斜め前のチームに負けさせる事で後ろの自分たちを浮かび上がらせる」というウィップのやり方があったが、昨日の私はまさかそれを自分が悦に浸りながら何度も繰り返し聴いていたチームに対してやることになるとは予想だにしていなかったからである。しかし、そうかといってやらないわけには行かず、スピーチの冒頭でその旨を説いた私の声はおそらく震えていた。私は無能なファンなので、口で「OGは素晴らしい仕事はしてくれたが、、、」と言っている時には本当に彼らが素晴らしい仕事をしてくれたと思っていた。自分のチームを勝たせるためのディベーターとしては無能極まりなく、この時ばかりはパートナーに対して申し訳ないという気持ちが大きかった。なお、これを見ていたパートナーからは私が彼らを煽っていたように見えていたらしく、その事を思い出すだけでも未だに身震いがするのはここだけの話である。

兎にも角にも、幸か不幸か前のOGを4位に沈めた我々はこのトップラウンドを2位で堪え、ここまでの獲得点を10点に伸ばした。ブレイクが見えてきた。

R5、OOを引く。唯一の半期科目であった国際貿易論でSを頂いたおかげで現在のところの「今期GPA」が4.0になっていることをイキらせていただいている私にとっては非常にやりやすい論題である。やりやすい、はずだった。この手の話は法学部のパートナーよりは詳しいため、プレパでは21世紀における国際経済のあり方を投げ、その上で多国籍企業が展開する”グローバルバリューチェーン”が経済成長を促すメカニズムを私がLOから立て切ることを目標とした。今回のように私の方が彼よりも知識はあるラウンドにおいて非常に印象的だったのは、彼が私から簡単な概念を聞いただけでそれをどう料理しラウンドに投げ込むかを極めて短い時間で的確に判断する、ということである。以下は今大会通じての感想と言ってよいのだが、この「ただの知識や情報をラウンドを勝制することができる主張にまとめ上げて的確に投げ込む」能力が世界チャンピオンを世界チャンピオンたらしめているものであり、それらをただ知っているだけの私との差でもあり、そしてなぜ私が弱いのかを説明するものであると思っている。10月の私がこれを持っていれば当時のパートナーは今ここにいたのだろうか。といった陰鬱な話はさておき、目の前のOGを立論,反論の両面で沈めきった我々は勝利を確信していた。クロージングの両チームとも、我々の目から見て勝っていたようには見えなかったこともそれに拍車をかけた。ところがいざ長い長いディスカッションが終わり再びラウンド部屋に招集されると、我々OOは両クロージングに屈した形で3位を頂戴していた。唖然とした。しかし今ここで、あるいはその時その場であっても、私はその順位に異議を並べることに意味を感じない。負けは負けであり、それは泣いても、喚いても、そしてジャッジに3点をつけたとしても決して覆るものではない。結局このラウンドにおいて我々を沈めたのはメカニズムが埋まりきっていないことであったらしい。メカニズムである。それこそがLOである私の至上命題であると思っていたし、授業でそれに関する知識を吸収していた私にはできるはずだと信じていたが、実際にはできていなかったようだ。何が評価され、何が評価されなかったのか、それをパートナーと考えながら意識を次のラウンドへ向けた。1点を積み、ここまでで11点となる。残りの2ラウンドで2点を取るとブレイク圏、まだ十分可能である。

R6、OGを引く。ここに来てR4で沈めた件のチームと再び相対したが、先程とは異なり我々は斜め後ろから様子を伺われる形となる。日頃から絶対的な「正しさ」というものを嫌悪し、価値観を相対化して「まあ正解は無いよね」と逃げがちな私にとってこうした論題は苦手中の苦手であるが、代わりに私のパートナーは生死を扱う論題を非常に得意としていた。その結果、今回は基本的に彼に内容を吹き込まれる形のプレパとなる。2年前はこれが平常運転であり、先程まで私からアイデアを投げることも多かったのがむしろおかしかったのではないかという気がしてくるが、そう言っていても仕方ないのでよく聞いて構想を練ることに集中する。PMが始まる時点で、スライドで指定されたコンテクストにおいて特有の話よりも、この格差社会において裕福な家庭の子のほうが一般的に幸福になれるというなんとも頓珍漢な話を考えてしまっていたため、この時の私のスピーチは相当に酷いものであった。結局パートナーとは今大会最大の3点差がついた上に、チームとして4位を取っていたOOの両スピーカーを下回るという快挙を達成してしまい、「今回はすまんな、でもお前が勝てる話を考える時間くらいは稼げたろ」という気持ちであった。しかしさすがは安心と信頼の世界チャンピオンといったところで、彼は私が返しきれなかったCOからのPOIを切り刻み無事に2位をもぎ取ってきた。なお1位を取ったのは件のチームであるこのCOで、彼らは”たとえ死んだとしても真の親と暮らす短い時間に意味がある”というOOの主張には乗らずに”医師としてこの子供を救うためにどうするか”という対案を立てきってきた。私は彼らのファンなので惚れ惚れとしながら聞き入っていたが、ラウンド後に結果を待つ時間では所謂「推しを前にして動けなくなるオタク」状態になってしまったのは今や良い思い出である。ここで2点を獲得し、目標の13点となる。バブルではない最終ラウンドで余計なプレッシャーなくディベートできることに大きな喜びを感じつつ、紙を補充して次に備える。

R7、長い予選の最後に最も好きなCOを引く。この論題をひと目見たとき、我々の頭に浮かんでいたのはポルポトと市場経済だった。実は大会前に2人で話していたこととして、「資本主義アーギュメントでクロージングから勝ちたい」というものがあり、そのために資本主義のシステムや世界各国で採られていた共産主義の実例などをリサーチしていたのだが、予選最後のラウンドにしてそれが実現しそうな機運が巡ってきて非常に高揚したのをよく覚えている。これは控えめにまとめる程度に留めておきたいが、我々は人間の人間らしさが好きである。楽に暮らしたい、良いものを使いたい、人に見せびらかしたい、そうした人間の欲望は決して誰かに管理・支配され得るようなものではなく、それを実現しようとした事例は私の知りうる限り尽く上手く行っていないように見える。そして何より、そういった人間の根源的なあらゆる欲求の妥結点として成立しているこの今の社会に生きることを、我々は誇りに思っている。そのため、それを政府によって否定しようとするこの論題において否定側に立つことができたことに大いに感謝しつつプレパを進めた。尤も、今大会の我々はここまでほぼ全てのラウンドにおいてより「好き」な側に配置されており、やはり日頃の行いがものを言うのだなと実感している。

7ラウンド目にして13点ラウンドであるので、どのチームも手堅く論を立ててくるに違いない、そういった私の予想が裏切られることはなく、我々の前のOOは「市場経済はパイの大きさを大きくし、その社会において最も貧しい人が手にするパイの大きさは市場経済のない未開社会において最も裕福な人が手にするパイの大きさよりも大きい」としたスミス的な主張をしっかり立て切り、OGが搾取されているとした人々も仕事がある事によって実は救われているという様子を描いていた。一方で、OGとの間では幸せになれる、なれないの水かけに発展しそうな雰囲気を漂わせていたため、我々はより対岸の世界を崩すことに注力することとした。何より、勝ち切ることの優先度が下がりつつある引退3年生コンビにとって、反論したいという欲求に逆らうことは難しかったというのもまた一因である。なお、ここで人間らしく素直に欲求に従い、結果として冷静な戦略を欠いたことがのちに仇となるのだが、この時はそのようなことは知る由もない。

彼らは語った。「消費至上主義が生み出す過度な競争によって我々は幸福を感じられなくなっている。それを無くすことで我々は家族や恋人との時間を大切に過ごすことができるようになる」と。私は思った。「なんと素晴らしいことだ。だがその家族や恋人は、どこから出てくるのだろうか」と。我がパートナーは言った。「その家族や恋人と、何をするんだろうね」と。争いを好まず満足を知り、理性的かつ自律的である、そんな人間が溢れる世は素晴らしいに違いない。だがそれは、果たして政府による大量消費社会の抑制で成し遂げられるものなのか。そして何より、成し遂げられた社会があるとしたら、そこには何が残るのか。素敵な家、快適なソファー、そこでゆっくり見る映画、そうした物を作ろうという原動力のない世界で、我々は何を手にできるのか。あるいは、貴重な休暇にわざわざ台湾まで来てディベートという競争の権化とも言える競技に興じている我々にとって、そのような世界にたどり着くことは可能なのか。そうした疑問をひたすらぶつけ続けた我々は確かに彼らを沈め、更に前を追い抜いて2位まで浮かび上がることには成功した。しかしその代償として、より現実的な世界線を巧妙に描いたCGの独走を許すという失態を招くこととなった。

ここまでは反論したことを主に書いてきてしまったが、このラウンドのスピーカー達は立ち位置を問わず誰もが非常に上手だった。特にPMの「速度自体は早くないのにも関わらずこちらに大量のメモを強いてくる」というワードエコノミーに非常に優れたスピーチは、聞いていて胸を打たれるものがあった。いつか彼のようなスピーチをしてみたいものである。

ラウンド終了後、バスに乗ってブレイクナイトへ向かう。前述の通りラウンド6終了の時点で13点を持っていたため、いつものブレイクナイトとは異なり緊張や不安は無かった。豪華絢爛な会場で振る舞われる山海の珍味を前に心が踊る。そうこうしているうちにEFL枠のブレイク発表が始まる。昨年はこの時にパートナーと両手を挙げて喜んだのをよく覚えている。あの時は常にギリギリを戦い、そして瀬戸際で這い上がったEFL5位ブレイクだった。それは初めて国際大会に出た私にとっては大きな達成であり、努力の結実であり、何事にもかえがたい喜びだった。恐らく一生忘れることはないだろう。そして今年のこの時間、私はそれらの代わりに安心を覚えた。1位ブレイクの得点が12点であり、そして何よりそれが我々ではなかったことに対してである。EFLチームであり、かつ確実に13点は獲得していた我々にとって、それは一足早いブレイク発表と同義であった。

続いてOPEN枠のブレイク発表が始まる。蓋を開けてみれば我々は15点を獲得し、4位でブレイクしていた。スコアも高く、時に真面目に、ときに本能に従って楽しんだ予選7ラウンドのパフォーマンスが決して悪くなかった事を知った。もっとも、いつもの大会とは異なり、2位1位1位で8点を獲得した1日目、2位で堪えたトップラウンド、13点を持って望んだ最終ラウンドと、ブレイクを現実的なものとして見ていた瞬間は多々あった。それ故か、ブレイクナイトでKeio 4の名が現れても、爆発的な喜びは大きくなかった。Keio 3の名が呼ばれた瞬間に喜びを爆発させた昨年の自分が、この時ばかりは少しだけ羨ましく思えた。

慶応から翌日に駒を進めることとなったのは、我々とワールズに参加するチームの2つだった。私が何度も日吉で叩きのめされ心から恐れていた別のチームは、台湾では勝手が違ったのか実力を発揮しきれていなかったようだ。私はおこがましいことに、その姿を2ヶ月前の自分と重ね合わせていた。今回とは別の同期と共に成都で行われた大会に参加していた私は、2位3位2位2位3位と6ラウンドのブレイク必要点が10点である大会にしては悪くはないペースで最初の5ラウンドを進んでいたが、肝心の最終ラウンドで4位を取り沈んだ。ブレイクナイトでそれを知った時の感情はよく覚えていないが、我々とは対照的に最後に1位を取りブレイクを勝ち取った2年生ペアを前にし、彼らの手を握り、肩を叩き、そして彼らの写真を撮って全力で祝福しようとしても、どうしても心の奥底では少しばかり祝福よりも羨望が勝ってしまっていた時ばかりは、成人したとはいえまだまだ大人になりきれていない自分を恥じた。せっかく遠路遥々四川の中心まで訪れているという思いからか、それともブレイク落ちしたことを嫌でも実感させられる大会会場のホテルから少しでも離れるためか、あるいはその両方か、我々は拙い中国語で街へ繰り出し観光地を巡った。パートナーの真意は未だにわからないが、彼は「まああんまり練習してないし今の私達ならこんなもんよ、またなんか出ようね!」と言ってくれていた。こうして彼と街を観光しながら仲良く語り合っているうちに、最後に4位を取ったことやブレイクしなかったことによる負の感情は、いつの間にか雲散霧消していたのだった。この思い出を想起した私は、彼らに対して翌日二人で台湾を楽しむことを勧めた。これはどう見てもただのお節介であり自己満足でしかない行為なのだが、私はどうにもこれを伝えねば気がすまなかった。そしてこれもまた自己満足であるが、2ヶ月の前の私と同じように、彼らもまた大会3日目を楽しめていたとしたら、そして今大会の思い出が単に”ブレイクしなかったこと”ではなくなったとしたら、とても幸いである。

そのように時を過ごしているうちに、華やかなブレイクナイトも終わりを迎える。他の日本人ディベーターからの「馬場さん吐きましたか〜?」という絡みを「吐くまで飲む奴は三流」と辛辣に切り捨てるパートナーを横目にバスへ乗り込む。Pre QFがないため朝は早く、長い7ラウンドが終わったあととはいえそう休めるわけでもない。ホテルへ帰り、静かに喜び、語り合い、そして眠りについた。

翌日は少し早く起床し、バスに乗り込み会場へと向かう。長かった大会もこの日で終わりだと思うと、少しだけ寂しいような気もする。そのような事に思いを馳せつつ、共にブレイクラウンドへと駒を進めた他のチームやジャッジの皆様と軽く談笑をしつつ論題発表を待つ時間は、幾らかの緊張と共に少しばかりの高揚をもたらすものであった。

QF、再度COを引く。如何なる運の巡り合わせか、昨年は観客席から決勝を見守り、今年は予選で2度対峙した件のチームが、今度は目の前のCGとして鎮座していた。当時ソレイマニ司令官はまだ暗殺されておらず、11月の時点でこの論題を出したAC陣には未来予知能力でもあったのだろうか。私には所謂”ミリオタ”のような一面があり、戦闘機や戦車、あるいは中東戦争をはじめとした戦争に関する動画や記事などを日頃から目にしていたため、イランとイスラエルの軍事力に関する最低限の情報は持っていた。イランの主力戦闘機はパフラヴィー朝期にアメリカから購入したベトナム戦争時代の物で既に老朽化が激しいこと、それに対してイスラエルは最新のステルス機をイラン上空に飛ばした形跡があること、そしてそれをイランが探知できなかったことなど、イランが核ではない通常兵器においてアメリカやその同盟国イスラエルに対して大きく遅れを取っている旨をパートナーに投げ、オープニングの戦いを見守る。上記からわかる通り、私は基本的に「自分が知ってるどうでもいいこと」をパートナーに伝えてきた。これはその中の何かが彼の琴線に触れ、勝てる主張に繋がることを期待してのことである。このラウンドに話を戻すが、論題の特徴として主体がイラン政府であることがあり、その存続を賭けた戦略として何を採るべきかという議論が主なものとなった。OGは単に核開発を放棄することで経済制裁が解かれることを期待するという戦略を、そしてOOは不確実な経済制裁解除に期待するのではなくあくまで軍事大国としての地位を維持するという戦略をそれぞれ良しとした。その際OOはその主張を裏付ける説明をやや欠いていたため、先程述べたようなイランの実情をパートナーに綺麗に描いてもらうことで我々は貢献度を稼いだ。その一方で、件のCGは「核開発を放棄した上で支援するテロリストを主戦力とする」という戦略を推してきた。兵器オタクでしかなかった私には、そして我がパートナーにも、この時彼らが一体何を言っているのかわからなかったし、彼らは負けたのではないかとすら思っていた。しかしわからぬからと言って放っておくわけにもいかぬのがこの競技である。「テロリスト支援なんかしたらOGが言ってた経済制裁解除もしてくれないでしょ!」と言ってCGは一言も口にしていない経済制裁解除の責任を半ば無理やり押し付けてみたり、「テロリストの戦力なんてたかが知れてるでしょ!」と実現可能性を薄めようとしてみたりしたものの、その答えは数ヶ月後に白日のもとに晒されることとなった。ソレイマニ司令官が推し進めていた三日月作戦は確かにイラクやレバノンで大きな影響力を確保しており、その威力を知らなかったのは、そして敗北を喫したのは我々の方であった。蓋を開けてみればテロリスト作戦を描き切ったCGがラウンドを獲り、そして貢献度でOOをやや上回ったとされる我々が2位となり、我々は彼らと共に準決勝へ駒を進める運びとなった。

SF、我々は再びCOを引き、そして共に勝ち上がったチームも再びCGにいる。何ともHow dare you!な論題であるが、おおよその対立軸はまあ見えていた。しかしラウンド構成も1位ブレイクのOO、4位の我々CO、共に5位のCG、そして下剋上に成功した16位のOGという組み合わせで、ここまで来ると他チームのミスに付け込んで勝つという戦術も厳しくなるため、COから出せる物が残るかどうかが問題である。そんな緊張感と、一方で「準決勝までは行きたいよな」というぼんやりとした目標のようなものはすでに達成しているためここで散っても失うものはないという安心感、そうした感情が混じり合った複雑な心境で部屋に入る。学部の授業で聞いていたそもそもイギリスをはじめとした当時の世界がなぜ産業革命を必要としたのかという背景をパートナーに渡し、オープニングの流れを見守るが、1位ブレイクのOOは産業革命による大幅な生産性向上がどれだけの人命を救ったのか、そしてそれがなぜ人間として優先度合が高いものであるのか、そういったこの論題を否定する上で必要な論点を全て網羅していた。この時点で、私は勝てる気がしていなかった。1位ブレイクのOOは案の定我々には何も残してくれなかったため、本来であれば2人のスピーカーを総動員して対岸への反論に全力を投じるのが定石であるとは思う。しかし、ここで我がパートナーには少しばかりの遊び心が芽生えていたようで、”どのみち地球はいつの日か滅びるので、その時に科学技術が無い世界とある世界のどちらが良いのか”という世界観の大きな主張を展開した。私はそれで勝てるとも思わなかったが、この競技は一蓮托生でもあるため、自らのスピーチでも全力でこの方針を遂行した。しかしやはりそう上手くは行かず、手堅い主張を網羅したOOとCGの前に我々の台湾NEAOは終わりを迎えたのである。

ラウンドが終わりORへ戻ると、それを見に来ていた以前組んでいたことのある自大の後輩に「(留学中に彼と組んでいた2月と比べて)英語出なくなりましたね、ブランクですもんね」というコメントを頂く。正直自分のスピーチというのは後から聞き返しでもしない限りわかりづらいものだが、ここに来て”やはり英語が出ていなかった”という現実を突きつけられる。彼はとても率直で、その言葉は真であった。実は台湾へ向かう羽田空港においてパートナーから「お前発音汚いから裏でクチャラーって呼ばれてるぜ」と囁かれており、その時に「もともと綺麗なものだとは思っていなかったが、まさかエチケットも知らぬ野蛮人を指すような言葉で形容されるほどのものであるとは、我が英語ながら可哀想だな」といささか他人事の様に自らの話す言葉を哀れんでいたこともあって、日頃よく口にするケラケラという乾いた笑いが漏れる。それと同時に、よくぞこうも”英語の出ない”パートナーをここまで連れてきてくれたなと、改めて世界チャンピオンの強さを思い知る。

なお、どうも空港で囁かれたこの言葉が引っかかっているのか、今大会以降私は英語を綺麗に話そうとすることを躊躇するようになってしまっている。これまでの人生で、私は事実だと思ったことは事実だとして受け入れるようにはしてきたが、感情というのはそうした理性とはまた別のところにあるのかもしれない。いずれにせよ、類似の問題を抱える人の増加を抑えるためにも、一昨年の総会で採決されていた部内Equity Policyの拡充が待たれる。私はその制度が、現状主となっているGender issueに限らずこうした言語面も包括してくれるものであると固く信じており、多大なる期待を寄せている。

我々の出番はもう無くとも、そんな事はお構いなしに大会は続いていく。ここにきてもう一度、昨年恍惚と見入っていたあのチームを、今年は何度となく対峙し、時に沈め、時に沈められ、最後に我々の大会に終止符を打ったあのチームを、昨年と同じこの観客席から眺めることとなったのはまたどうした因果なのか。1年越しに再びOOに立った彼らのスピーチはまた魅力的で、そして今年は他の3チームをねじ伏せる強さを有していた。ブレイクラウンド全てを1位で終える、あまりに美しい勝利だった。

EFL,OPENの両決勝を終え、表彰が始まる。準決勝まで進出したため、チームとしての表彰は確実にある。問題は、個人だった。トップラウンドであったR4を含め、これまで戦ってきたのは平均的に上位のラウンドであったが、悲しいことに私は”英語の出ない”スピーカーである。パートナーはEFLなら10位には入るだろうと言っていたが、私はこれまで個人で表彰を受けたことがなく、今回もそうだろうと思っていた。10位から順にEFLの個人入賞者が呼ばれるが、6位に我らがKDSの2年生エース、5位にICUのエースの名が呼ばれ、今回もだめか、酷いスピーチも晒したしまあそうだよなぁ、と現実を受け入れる準備をしていたところ、4位として呼ばれたのは私の名であった。理解するのに3秒ほどかかったが、平均78点を取った私は確かに4位で表彰されていた。信じられなかった。なお同枠の1位は平均80点を叩き出した私の偉大なるパートナーであり、そして彼は同時に全体の2位も獲得していた。彼と私のスコア差は合計14点で、1ラウンドあたりの差に直しても2点と、歴史的なものだった。さすがだなぁ、そう自嘲的に笑いはしたが、同時にそうしたパートナーと今ここで共に賞状を渡されることの喜びを、私は全力で噛み締めた。

長かった大会は終わり、次々と帰国する他のディベーター達を見送りつつ我々はホテルに残る。翌日、長い長い9ラウンドを共に戦った彼とともに、私は観光を楽しんだ。ディベートの事を忘れ、学部の事も忘れ、晴れやかな心で眺める中国三千年の歴史はとても美しかった。

お土産を買い、食事を済ませ、飛行機の予約が取れていないという緊急事態もなんとか対処を済ませ、帰路につく。空港のホテルで一泊し帰宅すると、1週間に及んだ今回の遠征がとても懐かしく感じられる。これは単に戦果が良かったからなのか、旅行としても楽しめたからなのか、あるいは2年前の思い出を引きずっていた男と新たな思い出を残すことができたからなのか、その全てなのか。人の感情というものは切るしかなくなったあやとりの紐ほど複雑ではなく、またアフリカの国境線ほど綺麗に切り分けられるものでもない。ただ1つ言えることは、この大会に来てよかったと、今心から思えているということだけである。

思い返せば、夢とも現実ともつかぬ時間だったように思える。自分の実力では到底立ち得ぬところに立ち続け、その全てで常に周囲を見上げ続け、それでいて確かに自らの両足でそこに立っていた、そんな3日間であった。これまで参加してきたどの大会よりも高いところを飛び続け、今までは外から眺めていた様な試合を幾度となく中から見ることができた。おそらく今後このレベルの大会に行くことは無いだろうから、大学生活を捧げたものの1つであるこの競技のハイライトとして忘れ得ぬ思い出を得られたように思う。結成を勧めてくれた後輩、そしてここまで連れてきてくれたパートナーに、心からの感謝をしたい。

ふと考えると、私はこの大会の各ラウンドで、勝利に貢献していないかもしれないし、もしかしたら貢献していたのかもしれない。「スコア差えぐくて草」と言う人もいるし、「いや嶋本も頑張ったよ」と言ってくれる人もいる。そして、事実や客観視としてそこにあるのは4位ブレイクという輝かしい結果と7ラウンドで14点という歴史的なスコア差、そして外から見える「世界チャンピオンが同期の凡人を引っ張った」という景色だ。私はこれらの事実を否定する気は毛頭ないし、そして別に恥ずかしいとも思わない。何より、パートナーに対して申し訳ないという気持ちは欠片もない。2年前、BP noviceで私と組んだ彼は先輩だった。勝利に対する強いこだわりを持った彼に叱責されることもあったし、その後しばらく彼を恐れた時期もあった。しかし1年間の冷却期間を経て、今回の我々は真に対等であった。そもそも遊んでいるときに結成し、練習でも趣味や興味を主軸としたリサーチを楽しみ、そして大会中も尊重し合うことができた。私と彼は恐らく純粋に友として、パートナーとして接していたし、だからこそ留学前最後の相手として私を選んだのだろう。客観的に見て実力差はあまりに大きいはずであり、それが貢献度やスコア差に現れることも簡単に予想がついたはずだし、そして何より我々は過去に組んでおり、彼は私の至らない点についてよく知っていたはずである。それでも私を誘ったという時点でそれは織り込み済みなのだろうという「開き直り」を得て、その上で各ラウンドでは自らの知見を全力で吐き出せたと感じている私にとって、自分は貢献できなかったと悔やむ必要は微塵も存在しない。

ここまで述べてきた数々の「開き直り」は私の現実を受け入れる能力による物だろうし、その能力は向上心のなさから来るものかもしれない。しかし、もしその向上心があったとしたら、私はどうなっていただろうか。参加した全てのラウンドで負け続けた1年生最初の3ヶ月、自分たちだけがブレイクラウンドへ進めなかった紅葉杯、他にもブレイク落ちした様々な大会、チームの足を引っ張り続けた春T、ジェミニ杯、スピーチスタイルの差に苦しんだ留学初期、急遽出たものの惨憺たる結果に終わったHKDO、すれ違い続けたBP Novice、そしてパートナーと14点差がついた今回の台北NEAO。そのいずれにおいても、おそらく理想高きディベーターにとって辞めるに十分な理由はあった。だが私は厚顔無恥なことに、今ここにいる。そして今後も細々と、それでいて図々しく居座らせていただこうと思っている。それができるのは私がたどり着いた開き直りの流儀によるのだろう。

私たちが居るこのKDSというチームは、凄まじく強大である。OBOGから1年生に至るまで皆強く、賢く、大きな存在感を放つ。その一方で、そしてそうであるからこそ、真面目に努力しているはずの人が、或いは自分のペースに応じて取り組もうとしている人が、気圧されて自信を無くしてしまうことが多々ある場所でもある。私は自ら決めた遥かなる理想に向けて邁進できる人物は立派だと思う。これまでの人生であらゆる事に対して妥協と逃避を続けてきた私はそういった人たちを心から尊敬するし、そのまま頑張ってほしいと思う。だがもしそれがうまく行かなくなったときに、「現実を受け入れ、開き直り、居座る」というのもまたそう悪くはない選択であるということを、今ここまで読んでくれた人たちが頭の片隅にでも残してくれたのであれば、大した事もしていないのにこのブログを引き受けて長い駄文をわざわざ書いてきた甲斐があったと思える気がするのだ。


Results of NEAO 2019

Open Semi Finalist: Keio4 (Takua Baba, Hiroki Shimamoto)

Open Quarter Finalist: Keio1 (Mashu Kobayashi, Toshiya Ozawa)

2nd Open Best Speaker: Takua Baba

EFL Best Speakers:

1st: Takua Baba

4th: Hiroki Shimamoto

6th: Mashu Kobayashi

2nd Best Adjudicator: Hikari Tamura

Breaking Adjudicators: Miyo Arai, Yui Kawaguchi


嶋本さん、ありがとうございました💫