ディベート一時停止

みなさんこんにちは!今回は秋Tについてのブログを21期のまさに書いてもらいました!落語サークルに入っていたまさの落語が書いてあり、とても興味深いです!👀

 

それではどうぞ!👇👇👇


ブログを任されました。中道理仁です。
文章を書くのは苦手です。突っ込みの多い日本語になっているかもしれませんがご了承ください。
文才に恵まれず、話している方が人に伝わりやすいからディベートとか落語を始めたってのもあるわけですし…
またこの文章のテーマは秋Tの振り返りではなく、秋Tをきっかけに考えがまとまった自分のディベートに対する違和感と勘違いをまとめたものです。


目次
・自己紹介
・落語
・ディベートから離れて見えたこと
・後日談


・自己紹介

ディベート始めたのは高校の時。宇都宮高校に入学して、英語部に見学に行ったのがきっかけだった。「英語ディベートとかアメリカに10年いた俺がガン有利じゃん当たり前のこと話してればみんな英語力に気圧されて勝手に怖気づくだろうし、もしや俺無双状態なんじゃね?楽勝すぎワロタ」とか思い上がった状態で昼休みにモデルディベートを見に行きった。論題はバレンタイン廃止だったかポケモンは動物虐待か否かみたいなそんな感じだった気がする。案の定妙な理屈を日本人が拙い英語で話してるだけだなこれいけるわと思って放課後の部活に見学に行ったが最後、無知と恥とに全身を打たれながらその日は帰った。
部活見学でしたのはどの部活でもやるような「とりあえず簡単な論題を出すから3分間スピーチしてみよう」のやつ。そこは別に何の問題もなくクリアしたのだが、私の英語力を見て喜んだイギリスからの帰国子女の先輩がディベートの基本原則(First Principlesというらしいが、この名前を知ったのはごく最近のことだ)を教え始めたのだ。CJS、人権とIdentity、アメリカの牢屋がPrivateになっている理由とそれがどのような結果を招いているのか。私企業と国の機関との違いおよびそれらの性質。何を話しているのかさっぱりわからなかった。知らない単語もたくさん出てきた。しかしその都度聞くのは己のプライドが許さず、本当にわからない時だけしか質問ができなかった。人権の意味を説かれても実感がわかず、論理的にその価値を理解することができなかった。死刑制度なぞ知らぬ存ぜぬ何の意味があるのだ、あなたはなぜ私企業の性質をそこまで詳しく知っている。などと様々なことを考えながら精いっぱいの見栄がばれないよう気張っているうちに部活の時間が終わった。
明らかに自分は何も知らない。しかも何がわからないのかも分からない状態にまで理解が追い付いていない。つまりは馬鹿だ。負けた…
悔しかったので入部した。
以来私の高校生活のほとんどはディベートとアニメが中心になった。
ここでなぜアニメが出てくるかというと1年の時席が隣だった奴が重度のアニオタでそれに染まってしまったからである。悔いはない。

かれこれあって、なんやかんやあって、高3になり、WSDCの日本代表に選ばれ、大学に入り、落語を始めた。理由はディベートに疲れたからだ。

 

・落語

人の人生というのはいろいろあるものでして、人間万事塞翁が馬という言葉があるように先を予測するというのはだれにもできないことなのです。だからなのでしょうか、占いや陰謀、実はこの世界は宇宙人による実験なんだーなどというお伽話が後を絶ちません。今日はそんなおとぎ話を一つ、皆さんにお話しできればと思います。
時は平成ところは東京。齢19の青年がいました。彼はいたって普通の学生ではありますが、ひとつだけほかの人と違うところがありまして、えーそれは彼には未来が見えるということであります。どのように見えるかといいますと、夢の中におよそ2年先の未来の情景がはっきりと映るそうなのです。青年がこれに気が付いたのは小学5年生のはなし。それまでは海などない場所に住んでいたのですが、なんと海辺で知らないひとたちとなにやら体操服っぽい格好で潮干狩りをしていたのです。翌朝目を覚ました時にはすでに夢を忘れていましたが、その一年後、突然東京へ引っ越すことになりまして。そこで通った中学で千葉の岩井海岸へ校外学習に行くことになったのです。ああ、あの時見た光景だと潮干狩りをするときになって初めて気が付いたそうなのですが、デジャブという感覚ですかね、ええ。青年、当時はまだ少年でありますが、は何かの勘違いだとそう思っていました。確信に変わったのは毎年このデジャブを体験するようになってからです。夢を見るときも意識するようになり、ある法則に気が付きました。予知夢にもルールがあるとはなんとも律儀な夢ですねぇ。なんとこの夢、おおよそ1年おきに、見たことない景色、言ったことない場所しか移さないのです。平成に戻りまして青年はふとこんなことを考えました。「もしも世界中の場所、景色を見ることができたら予知夢を見なくなるのだろうか。」よせばいいのに人間というのは好奇心の塊でございまして、この青年も例外ではございません。好奇心が猫を殺したという諺もありますが、青年がひどい目に合わないといいですねぇ。幸い平成はITが目覚ましく発展し、VR元年も迎えた時代であります。グーグルアースを活用したりVRChatで海外の友達を作って現地の動画を見せてもらったり、あらゆる手段で青年は旅をしました。世界のありとあらゆる場所を見、実際に自分の足で行けるところはさらに入念に調査をしました。年中無休で歩き回り、旅をつづけた彼はとうとう40の時に世界中を見ることに成功いたしました。さて、予知夢のほうはどうなったかといいますと、なんと見ることには見るのですが一向にそれが現実にならなくなってしまったのです。知らない場所へは行くのですが1年待っても、5年待っても、10年待ってもそれが現実になることはないのです。どこにいるのか、誰といるのか、自分が今何をしているのかも分からない夢が続いて、青年は次第に夢のことを忘れてしまいました。あんなにも情熱を注いだ夢探しも、今となっては過去のもの。もう、どうでもよくなってしまったのです。愛する人もいない彼はたったひとりで余生を静かに過ごすことにしました。といっても今の時代、余生は無限に等しいのでいつでも次の冒険に出かけることはできるのですが、それはまた別のお話…

 

・ディベートをやめて学んだこと

頭のいい人と話すのは楽しい。建設的なうえに自分の知らないことを知っているため好奇心が常に刺激されるからだ。KDSに入らないという決断をしてしばらくはそんな、「失って初めて気が付くありがたみ」に思いをはせながら落語をしていた。3年間真剣に打ち込んだディベーの癖が抜けるはずもなく、物事へのアプローチがとにかく論理的になっていた。何かを考えるときは必ずと言っていいほど前提条件の確認から入り、問題がどこにあるのかとその原因を分析したのちに解決策および対応に入っていた。人と会話するときも論理的に動く頭がかならずあり、ぬぐうことは不可能になっていた。これは悪い癖であると同時によいものでもあった。一つ言えることは友達ができにくくなったこと。(責任転嫁
そんなふうに人間関係で悩んでいた時期は、諸悪の根源たるディベート(仮称)について再考する機会にもなった。
なぜディベートに憑りつかれていたのか?なぜ自分はそこまでの価値を、楽しさをこの論理ゲームに見出していたのだろうか?勉強を放棄して時には日光線の終電まで議論するほど没頭する所以はどこにあったのか?
人間的な理由を述べるならそれは単純に英語ができて、はじめのほうは勝てて楽しかったからだろう。しかしそれは初めのきっかけに過ぎないはずだ。負けても、つぶされても、屈辱的なスピーチをしても。それでもディベートを好きでい続けられた理由はどこにあるのだろうか。
社会を理解できるから?
違うだろう。社会の仕組みは理解できても人の感情も理解できず、他人に感情移入すらできていない自分は「社会」を知ることなどこれっぽっちもできていない。社会の仕組みと分析ならある程度できたが理解など到底無理だろう。俺がしていたのは人を統制するルールとそれのもたらした結果を俯瞰して因果関係を結んで人に伝えただけ。これはディベートを好きでい続けた理由ではない。
他人の一歩先を考えて優位に立てるから?
あり得る。人に勝つのは楽しいし面白い。圧倒的不利状況から活路を見出してWhipやSummaryなどで逆転できた時は全能感を味わえるし体を駆け巡る快感は中毒性がある。しかしそれのためだけに続けていたわけではない。高3になってからはそのような全能感とは無縁だったわけだし。これはディベートを好きでい続けた理由ではない。
論理展開をして結論を導く過程が面白かったから?
これは正解に近い気がする。勉強に応用できる面もあったしなにより人間として成長できている気がした。冷静に物事を分析できるのはよいことだと認識していたし、正しい分析を経て導き出した結論は実際強かった。ただ、そこには感じ続けていた疑問があった。「正しさ」は正しいだけであって別にだから何かが起きるわけではない。人間の感情は効用関数で表せないし時には矛盾した状態を継続することが望ましかったりする。「正しさ」はあくまで指標であり尊いと思う理想だ。これを追い求めることはかなわない夢を追い求めるのと同じでその行為自体に意味があるのであって夢自体に価値はない。すなわち、「正しさ」を前提に組み立てた理論を考えることは面白いかもしれないがあくまでこれはただのゲームレベルにとどまる話だ。何かが違う気がする。これはディベートを好きでい続けた理由ではない。

ディベートを再開し、秋Tに出たことがきっかけでこの理由を言語化できるようになった。秋TではBPがなんなのか全く理解できないまま全ラウンドを終え、一つも納得のいくスピーチができないままなんだかよくわからない状態で終わった。

初めてディベートが面白くなかった。

議論の中身が理解できても、自分の言いたかったことがあとできちんと言語化できても、それでも総括すると面白くなかった。これほどまでに何もなかった大会はないだろう。パートナーの結衣にはいろいろ教えてもらった割には何も返せなかったし貢献できなかったし迷惑をかけたし。驚くほど頭が働かなかったし勝てた時も勝てた理由がわからなかった。真剣になにも生まない、何も芽生えない大会だった。自分はあの時あの瞬間、絶望的なまでに無能だった。なのにそれでも、それでもディベートを続けたいと思えた。なぜなんだ。敗北感と焦燥、脱力と諦めにまみれたディベートにはもう用はないはずなのに冬Tに出てみようかなどと考えている自分は馬鹿なのだろうか。きっとそうだ。
打ち上げに行き、新幹線に乗って東京へとんぼ返り。寮の自室に戻るとルームメイトはいなかった。

 

・後日談

興味を持つか持たないかは楽しさに大きく依存する。またその時は理解できなくても、過去に似た経験をしていて、その記憶が楽しい記憶の場合、初見時は面白くなくてもしばらくは継続して興味を持つことができる。少なくとも自分の興味はそのように作用する。
アイデンティティに関する議論はしばしば行われるが私はそれは自分を支えてくれる「強さ」だと認識している。「私はこういう人間です」という軸がぶれずにあり続けられるということはいつでも見失わない何かが己を支えているからだ。恩師は自分のアイデンティティを「世界で最も宇都宮高校を愛している人」だといった。納得である。
自分がディベートを続けてよかったと思うのはこのように考える基礎を作ってくれたからだ。ディベートはただの道具である。空虚な言葉を紡いで他人を説得することは道具を使いこなす練習だ。この道具を使いこなすには自分の意思をしっかりと入れ込む必要がある。論理的思考が良いとされる理由は他人に伝わりやすいからだ。世界に自分しかいなかったら論理などいらない。思ったことをただつぶやけばいいだけである。ツイッターのように。そのため論理が真に力を発揮するのは、激情やメッセージ、確固たる意志が先に存在し、それを他人にそっくりそのまま伝えるときである。当たり前すぎるって?俺はこれを理解するのに数年かかったんだよ。他人を説得する前に自分の考えを形にすることが先だ。世界を騙す前に自分を騙せ。それがディベートで強くなる方法に違いない。己を破滅へと導く方法でもあるけどな。

ディベートが好きな理由は、ディベートが力そのものだからです。

 

・追伸

私は予知夢を見ます。予知夢は恐ろしいものです。未知そのものですから。


Results of 秋T 2019

[Grand Finalist]
KDS B: (Toshiya Ozawa, Mashu Kobayashi)

[Quarter Finalists]
KDS A: (Hiroo Murakami, Shingo Iwata)
KDS C: (Masahito Nakamichi, Yui Kawaguchi)

[Rookie Champion]
KDS E: (Yukina Hashimoto, Ritsu Murata)

[Rookie Grand Finalist]
KDS D: (Tsubasa Ito, Yohei Horiguchi)

[Open Best Speakers]
1st: Mashu Kobayashi
2nd: Toshiya Ozawa
4th: Yui Kawaguchi

[Rookie Best Speakers]
2nd: Yukina Hashimoto, Ritsu Murata
5th: Tsubasa Ito, Yohei Horiguchi

[Student Best Adjudicators]
2nd: Miyo Arai
3rd: Eiki Goro

CA: Hikari Tamura


まさ、ありがとうございました!✨✨