ラウンド練 0

今回は、20期の嶋本にNEAOのブログを書いてもらいました!珍しく目次とか何もないですが、流れるようにスムーズに読める文章なのでどうか最後まで読んでみて下さい!^^


“Keio Debate Squad” 私が所属するそのinstitutionは強い。「NEAOのEFLブレイクって別に誇れるアレじゃないっすよね」というパートナーの呟きに対して私が内心では大喜びしつつも同意している頃、後輩たちはスバルカップのグランドファイナルで堂々たるスピーチを披露していた。不甲斐ないHKDOの結果に打ちひしがれる私がこの文章を書いているのと時を同じくして、幾度もの困難を乗り越えた彼らは新たな1年生チャンピオンを生み出していた。そのたかだか二十数年の歴史の中で、彼らは数えきれないほどの苦難に打ち勝ち、栄光を生み出してきた。そのような強きinstitutionの一角で、弱い私はひっそりと生きてきた。

そもそも私はディベートのために海外へ行ったことがない。同期が「ADI最高!」といったタイトルのディベート録,旅行記,恋愛談(?)などを詰め込んだクオリティの高いブログを書いていた頃、私は自宅で留学の勉強をしつつ自転車のレースを見て喜んでいた。同期がSolbridge NEAOで海外ディベーターを相手に必死に戦っていた時、私はBP noviceグラファイのトラウマを必死に振り払いながら出願のエッセイと悪戦苦闘していた。尊敬する先輩は一年生の内から積極的に海外大会に出るべきだと力強く仰っていたが、弱い私はひどく懐疑的だった。彼は強いからそう仰るのだろう、私などが出たところで手も足も出ず舌を巻いて日本に逃げ帰るのだろう、下位ラウンドでふらふらするためにわざわざ海外まで行くことにどんな意味があるのだろうと、斜に構えてそのブログを読んでいた。しかしその1年後、私は羅湖駅の税関に立ち、あれほど忌避していた「海外大会」に向かっていた。
日本での最後の大会はジェミニ杯であった。チームを組んだのは憧れの同期である布施,そして恐るべき1年生のましうであった。私がmotionの意味を必死に理解しようとしている時に、彼らはすでにvetoを決めていた。その様な強力な二人に囲まれ、私は足を引っ張り続けていた。ほとんどのラウンドにおいてチーム内で断トツに低いスコアをたたき出し、これといった貢献もなくスピーチを終えることはもはや当たり前であった。幸いなことにプレジェミニ杯では比較的マシなスピーチができ、全勝でチーム2位を頂いたが、本線ではやはり私が足を引っ張りオクトで散ってしまった。日頃馬鹿にされ続けていた相手に対して一矢報いようと全力で作った精一杯のセカンドスピーチはラウンド内最低スコアを頂き、二人のチームメイトに対する筆舌に尽くしがたい罪悪感と同時に自身の不甲斐なさを嘆くよりほかに仕方がなかった。同時に、もう一度この憧れのチームでディベートをする機会はない事をひっそりと悟った。ここまで連れてきてくれてありがとう、短い間だけでも夢を見させてくれてありがとう、と思うので精一杯だった。
一般的な二年生にとって、ジェミニ杯は一つの区切りになる場合が多いと思う。例によって私もジェミニ杯での何とも形容しがたい後ろめたさから逃れるためディベートから距離を置くことも考えた。英語会の練習と勘違いし迷い込んでから1年半が経ち、自分より弱かった同期、或いは絶対に勝てなかった同期さえも次々と姿を消す中しぶとく居座り続けてきたがそろそろ頃合いか、そう考える自分もいた。
そんな中、広州で開催されるNEAOのことが頭をよぎった。現在活動している同期の中で圧倒的に弱い自分と組んでくれる相手などいるはずがないと諦め、頭の片隅に追いやっていたその大会の存在を唐突に思い出した。そして、2年生に交じり堂々と活躍する1年生の姿を思い浮かべたときには、私は動いていた。「斎藤さん、広州でやる国際大会があるすけど、出ません?」今となってはなぜあそこまで卑屈になっていたのかわからないが、件のジェミニ杯、最後のオクトで負けた相手になぜか声をかけていた。後から思い返すと様々な理由があったのだろうが、自分がなぜか彼と組みたかったことしかはっきりとは覚えていない。そのような経緯を経て、弱小2年生と精強1年生による初めての国際大会が始まった。
空港で“アジアの国際都市香港!!3泊4日ツアー!!!”と書いたボードを持つ女性を見て「ああ、私も3泊4日で帰りたいなあ」などと考えながら、大英帝国の残滓が残るその地へ私は降り立った。チーム決めだけはしたものの、私は秋学期から香港での留学が決まっており、ろくに練習もせぬままパートナーと距離を取ることとなった。今まで20年間、旅行以外で海外へ飛び立ったことも無ければ家族と離れて暮らしたことも無い。初めての海外暮らしに初めての一人暮らし、さらに日吉とは異なる授業など、様々な要因が重なり碌にディベートと向かい合うこともできぬまま1か月間が過ぎていった。10月に入りやっと生活に慣れてくるころ、私は留学先の大学でディベート部の門を叩いた。トライアウトこそあったものの、幸いなことに問題なく入部することができた。そこでは、同じ競技をやっているはずなのに、何かが違うような印象を受けた。喋っている内容自体は変わらない、どころか日吉練のほうが幾分かレベルが高いようにも思えたが、特筆すべきは彼らのマナーである。私がナンバリングやサインポストを駆使して必死に作っているスピーチを、彼らはスラスラとやってのけていた。そして何より、1年生が極めて流暢に英語を喋っている。元英国植民地で早い時期から高いレベルの英語教育を受けているメンバーの中で揉まれながら、私は上級生のプレッシャーから解放されて自由にディベートを楽しむことができていた。
会うことのできぬパートナーとの練習は、予想通り難航した。しかしこれまでチームでの練習はラウンド練がほとんどだった私にとって、プレパ練と分担リサーチをメインとしたチーム練の持つ高い効率は新たな発見であり、却って良い結果を生んだのではないかと思っている。確かに、ラウンド練に一回参加するのにかかる2時間の間に、オープニングを想定した10分プレパであれば理論上10回以上行うことが出来る。我々はこのような練習で過去数年分のNEAOで使われたmotionに加え、HKDOをはじめとしたアジアのBP大会,さらにワールズなどのmotionをこなした。最初はぎこちなかったもの、プレパを繰り返していくうちに徐々に向上していくのを実感でき、士気が高まった。日頃からラウンド練に参加していたチームよりも消化したmotionの数だけなら多いのではないかと思っている。また、時間があるときはプレパを見てくれるなど惜しむことなく協力してくれたチーフの馬場には本当に頭が上がらない。そうした二人でのプレパ練を終え電話を切った後は、個人練習の時間だった。プレパ練で使った紙を使い、5分でスピーチを作った。というのも、この大会で私はファーストとウィップを、パートナーの斎藤遥がセカンドとメンバーを担当することになっていたのだ。私は他の同期や強い後輩に比べて英語が苦手であり、ファーストスピーチから逃げ続けてきた。しかし、香港への渡航前に参加した日吉練では同期の海人に「遥に反論させないのはもったいないからお前がファーストやれ」と言われていた。彼は私の実力をよくわかっている。今までずっとセカンドやウィップに徹してきた身としては悔しいが、もっともな判断だ。こうしてBP novice以来1年間逃げ続けてきたファーストスピーチと再び向き合うことになったが、その壁はやはり高く、厚かった。結局今大会を経ても私のファーストスピーチが解決したとはあまり思っていないが、それでもこの練習によってある程度マシなものになったとは思っている。また国際大会に臨むにあたり、初めてリサーチというものを意識的に行った。遥と二人で分野や地域を分担し、マターファイルを集める,ニュースサイトを参照して各地域の政治経済の情勢をまとめる,先輩が運営してくださっているDebate Memoを分野ごとにチェックして分析のストックを増やすといった作業によって、応用力の問われる難しいmotionへの対策を行った。パートナーとの3,000kmの距離を忘れ、今までに参加してきたどの大会よりもよく準備して臨むことができたのではないかと思っている。
上記のような練習をこなしているうちに11月になり、いよいよNEAOが目前に迫ってきていた。早めに香港入りし私の寮に一泊していた若葉杯以来の友人やKDSからの別のチームの1年生、そしてパートナーの遥を加え4人で香港から広州へ向かう列車に乗り込む。羅湖駅から深圳駅へ至る税関を居住者ゲートで超え、簡体字が目に飛び込んできたときには中華人民共和国本土に足を踏み入れたことを強く意識し身が引き締まった。高速列車と地下鉄を乗り継ぎ、開催地の人和に到着した時には空は焼けるように赤かった。中国本土の強烈なドライバーの洗礼を受けつつ、ホテルの部屋で4か月ぶりに再開したパートナーと最後のマターすり合わせを行う。別の後輩に「嶋本さんsocialsいかないの~??」と言われたが、さすがに2か月ぶりに一緒にいるパートナーと楽しく飲み会に興じる余裕はなかった。意思の疎通も兼ねた雑談なども軽く交えつつ、マターやリサーチした情報などを無事に共有し終えて眠りについた。
予選1日目、午前中に各種ミーティングを終え、午後からホテルの部屋で3ラウンドが行われた。自分でも驚いたが、この日私は緊張していた。これまで冬T,春T,ジェミニなどBP novice以降の大会ではほとんど緊張することなくヘラヘラしていたため「自分はもう緊張しないのではないか」などと楽観的に構えていたが、いよいよ大会が始まるという局面において緊張に襲われ、ひどく焦った。そんな中でR1のアロケが発表されたが、運命というのは残酷である。よりによって我々smiling eyes(今回のNEAOでは国籍などによる先入観を取り払うために各チームにコードネームが割り振られていた)はOGであった。比較的古典的な教育motionなのに頭も舌も回らず、一人で行ったスピ練に嘲笑われるかのように酷いPMスピーチで醜態を晒した。この時一番辛かったのはパートナーの遥だろう。久方ぶりに見るパートナーのスピーチがひどいものだった時の彼の絶望は計り知れない。結果として初戦で3位をいただき、とはいえラウンドを一つこなしたことによって緊張もほぐれた状態でR2へ向かう。OGの次はCOであった。不思議なことに、オープニングと違い練習できていないのにも関わらず謎の自信が湧いてきていた。Feminism motionのオープニングを落ち着いて聞いてみたところ様々なエクステンションが浮かび、初めてのクロージングで1位を頂くことができた。後から伺ったところチェアの溝神さんは我々に3位を付けておられたため、チームとして,さらに私のウィップとしての改善点を確認することができたのも大きな収穫だった。しかし続くR3では4点ラウンドで4位を食らってしまい、1日目を4点で終えることとなった。AI motionのこのラウンドでは、CGとしてOGの話を過小評価してしまったことが最大の敗因であったと思う。RFDが各チームの喋っていた内容をまとめた様な印象のものだったことも相まって順位そのものにはあまり納得できなかったが、このラウンドに対する反省を二人でしっかりと行った。ラウンド後は1日目全体の反省,チームとしての改善点の相談,音源を聞く,今日出ていないジャンルのmotionについて軽く準備を行うなどをしつつ眠りについた。
2日目は1日目とは異なり朝から4ラウンド目が始まる。ここにきて再度のOGに軽く衝撃を受けつつNEAO特有の北東アジアmotionに苦しむ。北朝鮮と米民主党のmotionだったが、正直北朝鮮に関しては知っていたものの米民主党に関しては人並みの知識しか持っておらず、思いのほか苦戦を強いられた。4点ラウンドだしなんとかなるだろうという目論見は崩れ去り3位、4ラウンド目を終えて5点と暗雲が立ち込める。ブレイクボーダーはOPEN11点EFL10点といわれており、残る2ラウンドへのプレッシャーが一気に高まった。R5はOO、motionは歴史のglorificationであった。中国本土にいるという緊張感からか唐や漢ではなくオスマン帝国のメフメト2世と映画Fetih1453をイラストとして出したが反応が微妙だった。素直に唐の話をしておけばよかったと思う。我々を無視し新たなディベートを展開するCGには4位を付けているパネルもいたが、voteの結果1位をかっさらわれた。結局差をつけたのは分析の不足だと言われ、「海外大会であっても求められるのは基本的なこと」という言葉がよぎった時にはすでにブレイク圏外に放り出されていた。5ラウンドを終え7点、次に1位を取ればEFLではブレイクできる。初めてのブレイクであった銀杏杯では負勝勝勝,日本での最後の大会であったジェミニでも負勝勝勝という潜水艦乗りの血が騒いだ。なんとしても明日ブレイクラウンドに立つという決意とともに臨んだR6、ポジションはCOであった。恩赦を禁止するmotionで、CJSを担当していた遥が火を噴いた。「あ、これマイノリティーっすね」彼がそうつぶやいたとき、私は明日ディベートをしている我々の姿が見えてきた気がした。OGは政治家の犯罪の話に終始しOOはただそれを潰した。彼らではなくOGからのPOIを取るたびにあからさまに舌打ちをして座るCGが何のエクステンションも出さずに帰ってくる間に、我々のエクステンションはラウンドを支配した。Unanimousで1位を頂いたらしく、ブレイクナイトで5th EFL breaking teamとして呼ばれた時は、二人同時に両腕を上げて喜んだ。やはりブレイクナイトで呼ばれるのは大会で1番嬉しい瞬間かもしれない。その後はホテルへ戻り、就寝。シャワーを浴びる遥に締め出され部屋に入れないなどのトラブルもあったが無事に2日目を終えた。
3日目、​我々はEFL 5位ブレイクなため、pre QF免除とはならず朝からラウンドへ向かう。正直12時過ぎまでブレイクナイトを行った翌日に8時半からラウンドというのは若干非人道的なのではないかなどと考えつつアロケ発表を待つ。ポジションはOOで、資産購入による市民権獲得に関するmotionであった。ここで初めてパートナーと認識が食い違ったが相手に合わせラウンドへ。PMから出されたコンテクストが我々の想定とは真逆でありおそらく二人とも内心で大いに焦っていたが、LOの冒頭から必死にすべてに対してひたすら反論を打ってなんとかこちらのコンテクストへ引き戻した。ラウンド後は二人とも負けた予感しかしておらず、ひたすら謝りあう時間が続いたが、ふと負けた時に責め合うチームじゃなく謝り合うチームで良かったとも思っていた。しかしいざSFのアロケが発表される瀬戸際で、しぶとく生き残っていたのは我々だった。CGには抜かれたもののOGに勝ち、COから逃げ切ることができていたらしくSFへ上がることができて安堵した。共に上がろうと誓い合った友人を蹴落としてSFへ上がるのは複雑ではあったが、これまでブレイクラウンドは初戦で負け続けてきた私にとって「次がある」ことはとにかく嬉しかった。ところがここにきてサウジのIR motionに対応しきれず3位、我々のNEAOはEFL SFにて終わりを迎えた。OGと競っていたらしいが明らかにOOを抜けなかったので納得である。疲弊しきっていたため1ラウンド分休憩し、バスに乗ってグラファイ観戦へ。映画館で行われた最後のラウンドでは、そこまで勝ち抜いてきたディベーター達が堂々とスピーチを披露していた。特にLOのスピーチに私は大きく感銘を受け、自分で撮った録音を何度も聞き返している。強いだけではなく、聞いていて魅了されるようなスピーチはディベートの大きな魅力であり、そして目指したいものとして大きなモチベーションを生み出してくれる。このグラファイを聞いたことは、今大会を通じて最も意味のあるものであったと断言できる。
非日常の大会を終えると、否応なしに日常を突き付けられる。他の日本ディベーターが香港の中心部で楽しそうに遊んでいるのをインスタグラムで眺めながら授業へ向かうのは正直空しいものであったが、これが現実である。4日間を共にしたパートナーは日本へ帰り、初めての国際大会はEFLセミファイナリストという形で終わりを迎えた。チームスコアは10点で、オープンブレイクのボーダーである11点とは1点差である。しかし私はその1点の大きさが嫌というほど理解できるし、あと1点でブレイクできていた、などとは思わない。なにより、数か月間パートナーと会うことなく電話やドライブ上だけでの準備となったことを考えると、満足のいく結果だと感じる。たしかに「NEAOのEFLブレイクって別に誇れるアレじゃない」とは思う。その通りだ。強い先輩は1年生でオープンブレイクしていたし、今の私と同じ2年生としてEFLブレイクした別の先輩はそれを悪夢だったと振り返っていた。だが私は、それでも自分を称えたい。そしてそれを今後続けていく糧にしたい。成功は人の背中を押す。たしかに私が日吉練に積極的に参加し始めたのも銀杏杯でブレイクしてからだ。パートナーとギリギリでつかみ取ったこの結果を悪夢ではなく、進む糧にしたい。パートナーには罪悪感ではなく感謝の気持ちを抱き、そして次はオープンブレイクしようと共に前を向きたい。
思い返せば、パートナーの遥には感謝してもしきれないと思っている。突然誘われ、しかも9月からいなくなる奴と快くチームを組んでくれたことに対して、そしてそれに文句の一つも言わずに一緒に練習してくれたことに対して、最後に緊張したり下手なスピーチを作る私に怒ることもなくフォローしてくれたことに対して、感謝してもしきれない。そんな彼が大会後のなにげない会話の中で「帰ってきたらまた組みます?」と言ってくれたことに、私はひそかに、そしてこれ以上ないほどに救われている。


Result of NEAO

EFL Semi Finalist: KEIO 3 (Haruka Saito, Hiroki Shimamoto)

2nd best adjudicator: Hikari Tamura (DCA)


嶋本、ありがとうございました!