UADC 諸法無我

今回の担当は、UADC2023で見事EFL Semi Finalistに輝いた、22期の後田壯さんです。

これまでのディベート経験をもとに、「ディベートを始めたての自分に何か伝えるとしたら」というテーマで、ディベートの向き合い方について執筆していただきました!後田さんのディベートへの考え方を知れる貴重な内容となっています。ぜひお読みください。


Table of Contents

イントロ

UADCについて

ディベートを始めたての自分に何か伝えるとしたら

 ①競技に伴う苦痛と、向き合い方

 ②”差異への感受性”を磨く

アウトロ


イントロ

後田壯と申します。KDSとしては22期で、2019年に大学に入学してから細々ディベートに取り組んできました。来年から社会人として働く予定で、今は学生ラストイヤーを謳歌しています。

今回はUADC2023の報告として筆を取らせていただきますが、私自身は本大会を持って競技としてのディベートから距離を取ろうと考えており、今までのことを振り返りつつ現在の考えを書くことができたらと思います。

長くなりますが、”人生においてディベートをどう位置付けるか”を考えるきっかけとなれば幸いです (お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、本稿は大先輩干場さんのブログ:“もし私が今からディベート人生をやり直すとしたら”を自分なりに二番煎じしています) 。

UADCについて

UADCについてのブログなので、一応触れます。チームメイトが頼もしかったです。私にとってはNEADCを除けば初めて出場するRegional Majorでしたが、2人にとっては昨年のリベンジという形だったと認識しています。気迫に満ちたスピーチを聴けて良かったです。

 

ディベートを始めたての自分に何か伝えるとしたら

”極意”ほど意味深長なものではありませんが、4年の経験から抽出したエキスを2つ伝えます。

今まさにディベートを始めようとしている方、辞めようとしている方、はたまた熱中している方に何か価値があると幸いです。

最も大事なマインドセットを先に共有します。好きな漫画の受け売りですが、

『ま じっくり行きましょうや どうせ闘るなら楽しまなきゃな』

です。(HUNTER×HUNTER、ぜひ読んでください!)

 

①競技に伴う苦痛と、向き合い方

私はディベートという競技を心の底から愛していますが、また同時にそれが苦痛を伴う競技であることは認めざるを得ません。特に受験以外の文脈で英語に触れず、大学から始めようと思い立った一年生にとっては。7分与えられたスピーチ時間のうち1分も喋れず、また的外れな内容が審判に評価してもらえない、それがごくごく一般的な様子だと思います。そのような状態を脱しても、大会に出てみれば自分よりもディベートが強く上手い同級生に出会い、負け、自分と彼ら/彼女らとの違いが何なのかに思索をめぐらせるでしょう。そして結論づけるのが”地頭”や”才能”、”経験”といった、定量化できない極めて曖昧な、しかし決定的であると思われる要素です。

少なくとも私はそうでしたし、似たような状況に置かれディベートから離れる人も多いと、最近のコミュニティの縮小と併せて推察します。

しかし私は、ディベートを続けることはその苦痛を埋め合わせて有り余るだけの価値をもたらしてくれると考えています。ディベート界には普通にしていたら関わらないであろう優秀な人がたくさんいますし、苦痛の先に自分なりのやりがいや達成感を感じることができればそれはかけがえのない経験だと思います。

向き合い方について話をしましょう。開き直ってしまうことに尽きると思います。

自分自身のある時点における実力や実績をありのまま受け入れることです。大会でのブレイクやスピーカープライズの経験などについて、あなたが思ったような成績を上げることができていないとしてもそれはあなた自身について何も否定し得ません。それはあくまでもある時点においての結果に過ぎず、あなたはその時点の自分よりも良いバージョンに変わることができるからです。当然勝てない理由を分析することは重要ですが、自分が今置かれている状況について悲しむこと自体はあなたの実力を向上させるわけではありません。あくまでドライに、淡々と、次の機会に事を成し遂げるために必要なことをこなすべきです。

私は人生で初めて出場した大会で大敗を喫しています。その事実をある人に言うと驚かれるぐらいにはディベートが強くなりました。今仮に伸び悩んでいるとしても、時間が経てば如何様にも変わりうるものです。

②”差異への感受性”を磨く

アナロジー思考のようなものを用いて、あるモーションで使用した/された分析を他のモーションでも使おうとするディベーターをよく見ます。しかし、全く同じモーションではない以上喋るべき内容には差分が生じるはずです。故に、アナロジーそのものは何かを発想するための出発点として扱うに留め、各々のモーションに対応した分析を毎回行うべきだと思います。

具体例の話をしましょう。

-THW allow gifted students to skip their grades

-THW introduce grade skipping system

上記の2つのモーションでは、多分に共通した分析を出すことが可能かつ効果的であるかのように思われます。実際にそれが通用することも多々あると私自身(主張していることと矛盾しますが)考えます。しかし、2つのモーションの間では明確なニュアンスの違いが存在します。”才能のある生徒自身が飛級をする(ことを許可する)”ことと、”教育機関が飛級制度を導入する(が故に結果的に生徒は飛級ができるようになる)”ことの間では、重心が異なっています。これは、片方のモーションにおいて重心を突く分析は、必然的にもう片方のモーションにおいては重心を突かないことを意味します(言葉遊びのように繰り返しますが、2つのモーションでは重心が異なるものであるため)。

モーションという対象に限定して差異を感じ取る重要性を話しましたが、これはディベートに関係して(もしくはせずとも)触れる情報と意味の全般に対して通底することだと思います。”全く同じ”ではない時点で、既にそこには”なんらかの差異”が存在し、その”差異が明確になる”ことでより核心に迫ることができると、考えています。

アウトロ

煩雑に何か言っていますが、楽しく、しかし熱を持ち、食い入るように競技を見つめ続けることが大事であるかのように思われ、それが伝えたいことです。

イントロでも言った通り私はこの競技から離れますが、その理由はラウンドにおける勝敗がかなり正確に推し量れるようになり、RFDを待つ間の気持ちの昂まりが失われてしまったからです。こう言うとネガティブな思考のようですが、シンプルに満足した、ということだと解釈しています。

人によって”なぜ/何が楽しくてディベートをするのか”の問いには異なった解を持っているかと思います。まだ解を見つけられていない方もいらっしゃるかもしれません。それらの全てを引っ括めて、皆様が悔いのない競技人生を過ごされることを切に願っております。

また末筆ながら、お世話になった皆様に謝意をお伝えさせていただければと思います。

ありがとうございました。

 

 


[Results]

EFL Semi Finalist

Keio (So Ushiroda, Taichi Fukami, Ryuki Iida)

Breaking Adjudicator

Natsumi Sadaoka